時間の概念研究所、略して「時らぼ」

時間の概念的だなあ、と思った事を遺していきます。

時らぼ、はじめました。

カップヌードル

 

21世紀に生きる僕たちにとっては今や当たり前となっている商品、

1971年発売以前に生きる人々はこの発明品をどう捉えるだろうか?

 

「早い!!!」

「安い!!!」

「簡単!!!」

 

逆に当たり前になってしまったからこそ、ありがたみを感じず

新たな批判も集まっている。

カップヌードルのネガティブな意見は総じて

 

「栄養は???」

「健康面は??」

 

な気がする。



しかしどちらの意見にせよ

人々はもっと大切な「3分」の食事の偉大さを見落としてしまっている。

 

 

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「3分て、早くなくない?」

2016年2月某日、

 カップヌードルの真価とは?

 僕たちはこのトピックについて思考する機会が与えられていた。

 そこで僕らが、まず考えた事は

 

「3分て、早くなくない?」

 

ということだ。

 

いや、もちろん当時の人は3分という時間を短く感じている。

 ウルトラマンは3分間しか僕たちのために戦ってくれない。

 3分間「しか」。いかにも残念そうだ。



一方で最近の人々が、何か気になったとする。

情報社会の時代、ググれば一発だ。

 

ではそのなにかを検索するのに3分かかったらどうだろう?

 

通信の遅さによって人の怒りを買い、投げ割られてきたスマホを積み重ねたら、一体どれくらいの高さの山が出来るだろうか。



このように、同じ3分でも、時代や状況によって、全く捉え方が違うのだ。


『3分』の価値

 

そしてたどり着いた考えが

 カップヌードルの魅力の一つである『3分』の価値が、1971年と現在の2016年で同じはずがない」

 ということである。



3分でそれなりの質を保った食事ができる=「今は」当たり前になっている

 まだカップヌードルが存在していない時代、人々はこんなにも簡単にラーメンを口にすることができたと想像できただろうか。

かつては偉大だった技術が今や凡庸と化してしまっている。

 

3分で食事ができる

3分で友達と連絡が取れる

3分でホテルや飛行機の予約ができる



これらもまた全て当たり前である。

わざわざ、手紙を送って近況を報告していれば時代遅れと言われしまう。



これは現代の時間感覚の変化を象徴している例なのではないだろうか?

 

だから僕たちはもう一度原点に立ち戻り

「3分」をもう少し踏み込んで考えてみる必要があると感じた。

 

おそらく時間単位の価値が昔のものとは変化している。

最近では時間資本主義だと呼ばれる考え方も生まれてきた。

しかしもっと大事な何かが抜けている。

 

時間の概念が寿命を延ばす?

 

かつては最低でも1日は待たなくてはならなかった友人とのやりとりが数分で

かつてはラーメンを食べにわざわざ外出していたのが数分で

この短縮した時間でまた限りない作業を繰り返す。


100年でできることが増えてはいませんか?

自分の寿命が伸びている気が気しませんか?


これからはもっと具体的な例とともに

時間の概念を見直すきっかけをみなさんに提供していきます。

 

 

そして、このブログを読んでいただいた人々の寿命を延ばしていけたらと思います。